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もう書くこともないと思っていたブログ。長野県の川中島のコインランドリーの駐車場にて。

あれから色んな事があり、今は長野県の小川村という村で暮らしている。パートナーと二人、これからの時代は、色んな意味で一極集中型から移行すると感じ、東京を離れ、過疎地で新しい時代の生き方を模索しようと移住したのだ。
ベジタリアンになったりしたのも大きな要因だったのだと思う。
こうなると、色々な事柄はスムーズに転がり出す。何度も味わったことのある感覚。
呼ばれるように、小川村に辿り着いた。

そして私はこうも思っていた。パートナーは苦悩を抱えていた。その苦悩が、都会を離れる事によって薄らいで行くのではないかと。
結果から言うと、私は村に来て半年足らずで一人になった。
苦悩。きっと誰もが感じたことのある苦悩。何だかよく分からない、小さなようで巨大な苦悩。世界がまるで、自分一人きりで、誰とも深く交わる事のない闇のような場所になる。全てが自分一人。個と孤立の区別も理解できず、孤独が唯一の友となる。
私も随分苛まれた。自分というものを探したり、理解しようとしていたのだと思っていたが、否。今にして思えば、自分という存在、深い場所にいる自分を知っているはずなのに何故か思い出せないでいる。それを何とか思い出そうとしていたのだ。
27歳。この頃から私はまた変わり始めた。きっと死ねば思い出すことができる、という極端な発想を潜在的に持っていたのだ。だが、死ぬということを考えてみた。宗教などにも深く関心を持ったのもこの頃である。生を生き抜き、死を死に抜く。私はこの言葉に動かされる。
そして思った。きちんと死にたい。その為には生きている時に死を考えてはならないのだと。

今の心持ちは、また少し違ったものになってきているが、私が変わり始めたのはそんなものだった。

私は今もずっと探している。いや、思い出そうとしている。その為に何かをしている。思い出そうと一人、考えていても思い出せない事は、もう十分分かったのだ。何かを行動する事でしか思い出せない、もっと深い自分。そして、少しずつ自分を思い出している。理解してきていると言った方が分かりやすいのだろうか。
本当の自分、というような事ではない。現実に今、鏡に映る私も本当の自分だ。ただ、無数にある私の表現の一つなのだと思っている。もっと深い自分。
人はいつから、自分の事が分からなくなったのだろう。

話は逸れたようだが、私はきっと、彼女を見て、昔の自分を見たようで、可愛くて仕方がなかったのだろう。そして、それがいつか変化する事が分かっていた。だから、どんな事が起ころうと大した事ではなかった。

でも、私はどこかで感じていた。
ある昔の物語で、こんなキザなセリフを言う男がいた。
人の傷口に入り込んでも、それが治る時、かさぶたと一緒に剥がれ落ちてしまうのだ、と。
いつか一人になると思ってもいた。親御さんに引き取ってもらう事になるのではないだろうかと。
少し形は違うが、似たような形になった。
でも彼女はどこかスッキリもしていると思う。何かが剥がれ落ちたかのように。
これを機に彼女は大きく変わるのだろう。

私は何も出来なかったが、側にいてあげる事は出来た。
幸せな仕事。人を幸せにする仕事。それは、その仕事が必要なくなると言う事が、幸せな事である。

一緒にずっといる事が全てではない。相手が幸せになると言う事が、全てだ。
そして、それは私にも言える。
そして、私は感謝している。私を村に連れてきてくれたのは、間違いなく彼女である。私一人では、村に移住を考えなかっただろう。二人だから考えられたのだ。そして、新しい時代の到来を強く感じ始めたのも、同じ気持ちを共有できる彼女がいたからこそである。

私は、彼女がここに連れてきてくれたのだと思うと、一人でもこの村でやって行こうと素直に思えた。彼女がくれたプレゼントなのだと思う。
そして、寂しいと言う気持ちが薄れていった。そう。私は一人ではない。みんな本当は近くに、ずっと近くにいるのだ。
小さく見える夜空の星にだって友達はいる。時間と空間が、色々な観念を与えるが、実は皆、ずっとそばにいるのだと私は感じている。そして、彼女もきっと笑っている。きちんと愛を感じている。私はそう確信している。


コインランドリーで、大量の衣類やカーペットを洗い、乾燥を待っている。
外で久しぶりの煙草を吸っていると、一匹のカラス。クルミの実を食べようと、それを口に咥えて高く飛び、地面に落として殻を割ろうとしている。何度も、何度もだ。



久しぶりのブログ。私の思いを吐き出すかのようにすごい勢いで書いてしまい、又、パートナーの個人的な事柄も気をつけなければならず、意味の分からない事もあるかと思いますが、ご勘弁ください。

また一人になったので書く事もあるかと思います。
また気が向いたら覗いてください。